1716年、徳川吉宗(とくがわよしむね)が享保の改革(きょうほうのかいかく)をはじめる。
享保の改革とは?
「享保の改革(きょうほうのかいかく)は、1716年~1746年に徳川吉宗(とくがわよしむね)によって行なわれた改革。
倹約令(けんやくれい)、五公五民(ごこうごみん)、新田開発(しんでんかいはつ)、目安箱設置(めやすばこせっち)などから成る。
「享保の改革(きょうほうのかいかく)は、1716年~1746年に徳川吉宗(とくがわよしむね)によって行なわれた改革。徳川吉宗は(とくがわよしむね)、江戸幕府の第8代将軍であり、時代劇「暴れん坊将軍(あばれんぼうしょうぐん)」の主人公(しゅじんこう)としても知られる。
徳川宗家(とくがわそうけ)の直系男子(ちょっけいだんし)が絶(た)えたことで、御三家(ごさんけ)から初めて将軍(しょうぐん)になった人物としても有名だ。
吉宗(よしむね)は、1716年(享保元年)に将軍(しょうぐん)になると、紀州藩(きしゅうはん)での経験(けいけん)を生かし、幕府の財政改革(ざいせいかいかく)に乗り出した。
こうして、将軍自(みずか)らが先頭に立って取り組んだのが、享保の改革(きょうほうのかいかく)だ。
吉宗はまず、倹約(けんやく)に励(はげ)むことで余分な出費(しゅっぴ)を抑(おさ)えようとした。
正室(おうしつ)や側室(そくしつ)など多くの女性たちが暮らす大奥(おおおく)の人員(じんいん)を削減(さくげん)したのも、吉宗が行なった改革(かいかく)のひとつだ。
吉宗は贅沢(ぜいたく)を禁じる「倹約令(けんやくれい)」を出すなどして、武士に対して質素(しっそ)な生活を求めた。
吉宗自身も木綿(もめん)の服を着たり、普段の食事は一汁一菜(いちじゅういっさい)にしたりと、質素(しっそ)な暮らしを実践(じっせん)した。
また、年貢(ねんぐ)による収入を増やすことも重視(じゅうし)した。
百姓の年貢率(ねんぐりつ)を四公六民(しこうろくみん)から五公五民(ごこうごみん)に引き上げたり、新田(しんでん)の開発に力を入れたりしたことから、吉宗は「米将軍(こめしょうぐん)」とも呼ばれた。
併(あわ)せて、貧(まず)しい庶民(しょみん)の声を聞くために、目安箱(めやすばこ)を設置(せっち)した。
無料で診療(しんりょう)が受けられる「小石川養生所(こいしかわようりょうしょ)」を設立(せつりつ)したのも、庶民(しょみん)からの要望(ようぼう)がきっかけだ。
その他、江戸町奉行(えどまちぶぎょう)の大岡忠相(おおおかただすけ)を中心に、火事に対する自治組織(じちそしき)である「町火消(まちびけし)」を設置(せっち)した。
時代劇・「大岡越前(おおおかえちぜん)」のモデルにもなった大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)は、町奉行(まちぶぎょう)として享保の改革(きょうほうのかいかく)で大きな役割(やくわり)を果たした。
享保の改革の結果は?
開発によって米を育てる新田(しんでん)を増やしたことで、献上米(けんじょうまい)や年貢(ねんぐ)などの収入(しゅうにゅう)は増加(ぞうか)した。
その結果、赤字(あかじ)だった幕府の財政(ざいせい)は黒字(くろじ)となった。
これは、享保の改革(きょうほうのかいかく)を行なったことによる大きな功績(こうせき)だ。
一方で、税(ぜい)を納める民衆(みんしゅう)の負担(ふたん)は大きくなった。
収穫(しゅうかく)した米の半分が年貢(ねんぐ)として持っていかれてしまう五公五民(ごこうごみん)の税負担(ぜいふたん)は、百姓(ひゃくしょう)にとってたいへん厳しいものだった。このため、この年貢(ねんぐ)の高さに不満をもつ百姓(ひゃくしょう)たちの一揆(いっき)が急増(きゅうぞう)した。
1732年(享保17年)には享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)が起こり、米の値段が上がったことで、貧(まず)しい人々が米商人(こめしょうにん)を襲う「打ちこわし」が多発(たはつ)した。
享保の改革(きょうほうのかいかく)は、財政(ざいせい)の黒字化(くろじか)に成功した。しかし同時に、百姓(ひゃくしょう)からの強い反発(はんぱつ)もあった改革だったということを忘れてはならない。
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